今年の4月に、母が3回目の誤嚥性肺炎で入院し、5月末に退院。
その後は、再発しても入院せず、看取りを視野に入れ、慣れた施設で過ごすと決めました。
そのことを書いた記事「まさか、こんなに早く来るとは・・・・、そしてこれから」はこちら
しばらく落ち着いた日々が・・・
住み慣れた施設に戻ったことを理解できているのか、それとも本能的にリラックスできているのか、自分の部屋に戻ったその時から、何度も笑顔を見せたり、看護師さんの声かけに声を出して返したりする母。
この時、母の笑顔を見て「あぁ、やっぱりここに戻ってきて良かったなぁ」と思ったものです。
入院中はこちらの声かけに反応することの方が少なかったし、笑顔はもっと少なかったからです。
ただ、この状態がいつまで続くかわからないし、残された時間をできるだけ母と一緒に過ごすために、入院前は週1回だった面会を今後は1日おきに行くことにしました。
退院後は、入院中は中止していた胃ろうでの栄養剤の注入も再開しました。
減ってしまった体重が戻るまでには至りませんが、「少しでも体力を戻し、これ以上痩せてしまうことは防げるのでは」と思っていました。
また、必要な栄養が入ることで体の機能の働きも安定するのか、しばらくは体調も安定していました。
たまに37度少しの微熱が出ることもありましたが、それは、高齢者特有の体温調節ができにくくなっているこもり熱で、特に心配ないようでした。
また、入院中は痰が絡んで定期的に吸引をしていたのですが、それもかなり少なくなり、ちょっと安心していました。
2か月後、4度目の肺炎再発
そんな落ち着いた日が2ヶ月ほど続いた7月末のある日、その日は面会に行く予定だったのですが、朝の7時半ごろ、施設から電話が。
「こんな時間に電話があるなんて、良くない知らせに違いない」と思う一方で、心を落ち着けながら電話に出ます。
悪い予想は当たり、「顔色が悪く、熱が38.2度、呼吸も浅く、血中酸素濃度は87%。すぐにかかりつけ医に連絡し、今到着を待っている状態。かかりつけ医の診断後、また連絡するが、取り急ぎ現状の連絡をした」とのことでした。
その後、かかりつけ医の診断で「採血をしてその結果が出なければわからないが、おそらく肺炎だろう。血中酸素濃度は92%になったが、それでも低いので酸素を吸入して、炎症を抑える抗生剤を投入、栄養剤の注入は中止し点滴に変更する」ということでした。
そしてこの日の午後、面会に行ったのですが、酸素マスクをつけてベッドに横たわった母は、目はほとんど閉じ、こちらの声かけにもほとんど反応できない状態でした。
ただ、看護師さん曰く、危険な状態というわけではなく、抗生剤の投与、酸素吸入をしながら様子を見ていく、とのことでした。
そうは言われても、さすがにこの日の夜は心配で、「夜中に緊急の電話があったらどうしよう・・・」と不安でなかなか寝付けませんでした。
どうにか朝まで電話が鳴ることはなく、翌日面会に行ったところ、熱も下がり、酸素の量も3リットルから2リットルになっていました。
また、母の表情も意識があるのかないのかわからなかった昨日とは違い、私のこともわかっているようでした。
そして、この日から毎日欠かさず面会に行くと決めました。
肺炎はよくなったものの・・・・
数日後には、抗生剤の投与は終わり、肺炎は少しずつ良くなっていきました。
酸素の量も2リットルから1リットルになって、母の状態も安定し小康状態が続きます。
そして、主治医の指示で、今後は体力を戻すために少しずつ栄養剤の再開をすることになるのですが、これがうまく行きませんでした。
どうやら、内臓の機能全体、特に、消化機能が衰えているらしく、胃に入った栄養剤を十分消化できず、吐き気をもよおしたり、痰が絡んだり、排液の量が増えたりなど、色んな別の症状が出てきました。
排液とは、こちらの記事に詳しい説明があるのですが、胃の中のものが消化しきれずたまったままだと、逆流して肺に入ってしまう恐れがあるので、それを防ぐために胃ろうのチューブから出した胃の中の液体のことです。
これまで栄養剤を中止して点滴でしか栄養を入れておらず、それでは体力も戻らず痩せていく一方なので、主治医は体力を戻すべく栄養剤を再開したいのですが、逆に本人はしんどそう。
どっちを取るか、という判断の難しい選択になります。
私としては、お別れの時期が多少早まっても、とにかく本人がしんどくないよう、苦しくないようにしてほしい。
また、毎日母を看護している施設の看護師さんも、「栄養剤を注入しても十分に消化できる力が足りておらず、ご本人がしんどい思いをする。ご家族も苦しくないことを希望しておられる」と主治医に伝えてくださり、最終的に主事医も栄養剤の再開は止める方が良いと判断されました。
こうして、栄養剤の再開を止めたことで、状態は少しは落ち着いてはきましたが、相変わらず痰がからんで咳き込んだり、排液の抽出も続いていました。
この真夏の暑さを
そして、そんな状態がここから続くことになります。
何かものすごく状態が悪くなることはないのですが、良くなることもありません。
日によって少し調子が良いこともあれば、逆にしんどそうな日もあり、母の状態に一喜一憂する日々でした。
7月末に緊急の連絡を受けてから、その状態からは良くなったものの、約1ヶ月、この状態が続いていました。
良くなることはないことはわかっていましたが、「11月1日の母の誕生日までなんとかこのままがんばってほしい」と思う一方で、「必要な栄養(カロリー)が取れておらず衰えていく一方なわけで、それがいつまでもつのか・・・・」と、客観的に考える自分もいました。
そんなことが交互に頭に浮かびながら、毎日、真夏の日差しの中、面会に行く日々。
施設に着き母の部屋に入って、ハンカチで額の汗を拭きながら「今日も暑いよぉ。駅から歩いて来たから汗びっしょりになったわぁ」と、大げさに暑がってみせたり。
「今日もカンカン照りで日傘をさしてきたけど、その日傘がね、ボロボロなんよ。見て」と言って、内側のラミネートが剥がれてきた日傘をさして見せたり。
こちらがその時の日傘です。

日傘を買い換えた時の記事「折り畳みの日傘と雨傘を断捨離して、晴雨兼用の傘1本にしてみた」はこちら
このラミネートが剥がれた日傘を見た母は、そのボロボロ加減がわかったのかどうかビミョウではありましたが、「ありゃりゃ~」みたいな顔をしたんですよ。
なんか、通じ合えた気がしてうれしかったです。
こんな風に、毎日、何気ない日常の出来事を母に話しかけます。
母は私の言うことに反応することは少なかったですが、自分で発することはできなくても、きっと何かしら感じていると思っていたので、なるべく普段通り、特別なことは何もなくても、母といつもどおりにすごしたかったんです。
そして、本当にあの頃は、毎日とっても暑かったです・・・・
自宅から最寄り駅まで、毎日、炎天下の中、自転車を20分こいで汗びっしょりになって駅に着き、電車を乗り継いで、施設の最寄り駅に着いたら、そこからラミネートが剥がれた日傘(笑)をさして10分歩いて、また汗かいて・・・・
片道2時間、往復4時間かけて汗かきながら通ってしんどかったけれど、「このしんどさを味わえるのも今しかないし、あとどのくらい続けるかわからないので、味わえるだけとことん味わってやろう」と、毎日思いながら通ってましたね。
9月になり・・・・
そして、暑い暑い8月が終わり、9月になりました。
姪(孫)の誕生日にビデオ電話
9月6日の日曜日、この日は姪の誕生日で、母とビデオ電話をしようと以前から姪に伝えていました。
この時点で、母が孫の顔をどこまで認識できるかわからなかったのですが、小さなスマホの画面越しでもかわいい孫の顔が見られたら、何かしら母に伝わるのではないかと思っていたので。
それと、姪には言っていませんでしたが、「おそらく、もう姪は母に会うことはできないかもしれない」とも思っていたので、彼女の誕生日のこの日にどうしても、彼女のためにもビデオ電話をしておきたかったのです。
彼女は夫婦で長野に旅行中で、旅先から旦那さんと一緒にビデオ電話をしてくれました。
夫婦二人の楽しい旅行を邪魔しないように、あまり長い時間ではありませんでしたが、姪はもちろん、旦那さんの方も「おばぁちゃん」と声をかけてくれ、穏やかな時間をすごせました。
そして、この日、面会を終えて帰ろうと部屋を出た時に、看護師さんから呼び止められ「お別れの時が近づいてきていると思われます」という意味合いのことを告げられました。
具体的にどのくらいなのか聞いてみたところ、「数日から1週間くらいではないかと思われます」とのことでした。
それほど長くはないとわかってはいたものの、もっと一緒にいられると思っていたので、「数日から1週間くらい」と言われた時は、「いよいよ現実になるんだ・・・・」と、さすがに心に来るものがありました。
そして、翌日の9月7日から泊まり込んで付き添うことにしました。
甥(孫)とのビデオ電話の後の母の笑顔
もう一人の孫の甥の誕生日も9月17日で、当初はその誕生日にビデオ電話をしようと思っていたのですが、そこまでは難しいと判断し、甥とは9月9日にビデオ電話をしました。
彼も遠方なので、頻繁には母に面会に来られないからです。
母は声を出して彼と話すことはできないのですが、30分ほどスマホの画面越しに孫の顔を見られて、そして、彼の「おばぁちゃん」と呼びかける声を何度も聞いて、きっとうれしかったのでしょう。
電話を終えて、私が「〇〇くんの顔が見られて、声も聞けて良かったね」と言うと、なんと母はにっこり笑ったんです。
もうここしばらくは、声かけにも反応することも、笑顔を見せることもほどんどなくなっていたのですが、孫の顔が見られて声が聞けてうれしかったんでしょうね。
私もうれしかったです。
このタイミングで孫二人とビデオ電話ができて、本当に良かったです。
最期を迎える母との濃い時間
この最後の1週間は、1日中母と一緒に過ごし、とても濃い時間を共有することができました。
職員さんからも、「お母さんとたくさんお話ししてくださいね」と言ってくださいました。
もちろん、母は日々弱っていくし、痰がからんで苦しそうにしたり、微熱が出たりなど、常に心配ではありました。
昼間はもちろん、夜も母のベッドの横に簡易ベッドを並べて、数時間おきに職員さんが体温や血圧、酸素濃度の測定、おむつの交換などに来られるたび、私も起きてその数値を聞いて、スマホのメモ帳にメモしたり。
うつらうつらしていても、母が咳き込むと飛び起きて母の背中をさすったり。
職員さんからは体調を心配されましたが、その時は「とにかく後悔しないよう、今できることをしっかりやる!母を送り出すのは私の役目だから」という気持ちだけで、他には何も考えてませんでしたね。
そして、その週の土曜日、9月12日、朝の看護師さんの巡回でいつものように体温、血圧、酸素濃度を測りに来られました。
母の状態を確認した看護師さんから、「いよいよあと数時間くらいかもしれません。他のご家族にご連絡される方がいいと思います」と言われました。
泊まりがけで付き添った日から覚悟はしていましたが、「数時間・・・」と聞くと、零れ落ちる砂時計の砂が、本当にあとわずかになっていくような感覚になったのを覚えています。
この日はお昼に妹が面会に来る予定だったのですが、すぐに連絡し、なるべく早く来るように伝えました。
そしてしばらくして妹夫婦が到着します。
母はずっと意識もあるのかないのか、眠っているような状態でしたが、ベッドの脇で母の手を握り、声をかけ続けます。
その状態がどのくらい続いたかわからないのですが、しばらくして、はーはーと息をするのが苦しそうな表情に変わったかと思うと、その後、すーっと眠りに陥っていくような穏やかな表情になりました。
母の長い長い旅が終ったことを悟りました。
これからも母と一緒に
母の最期をしっかりこの目で看取り、葬儀も四十九日の法要も終えたのに、いまだに実感がないというか、ふわふわした感覚が続いています。
かと思えば、ふと、母と過ごしたシーンが思い浮かんだりして涙が出たり、と忙しいです(笑)
東京での会社勤めを辞めこれからは母と一緒に過ごそうと、2018年に実家のある広島に越してから今までずっと、私なりに母との時間を大切にしてきたこと。
特に、最期は看取りを視野に施設で穏やかに過ごそうと決めてからは、とにかく母のことを何よりも優先に、母に寄り添い見守ることができたこと。
世界中の誰よりも、私が母と一緒に濃密な時間を過ごせたという自負があります。
そして、そうしたことで、お別れした後の後悔を少しでも少なくできたと感じています。
もちろん、完璧ではないけれど、「ああしておけば良かった」「こうもしておけば良かった」というような思いはあまりありません。
8年前に会社を辞め、「実家に戻って、母のそばですごし母に寄り添う」と決めて、そして行動して、本当に本当に良かったです。
そして、今こんな風にあまり後悔を感じずにいられることのもうひとつの理由は、母が認知症になってゆっくりゆっくり体力と認知力が衰えていくことで、覚悟や気持ちを準備する時間を私に与えてくれたからだとも思っています。
それは、自分がいなくなっても、娘の私がこれまでと変わらずしっかりひとりで自分らしく生きて行くための、母からのかけがえのない贈り物です。
この先、ものすごく悲しくて悲しくて心が折れそうになることがあるのかもしれないけれど、少なくとも、今はこれまでと変わらず、母と一緒にいるような感覚があります。
ベッドに横たわる母ではなく、遺影の中の母に向かってですが、毎朝「おはよ」と声をかけ、いつも施設の部屋で聞かせていたCDをかけ、とりとめもないことを話しかけ、外から帰ったら「ただいま」と言い、夜は「今日も一日お疲れ様でした。明日もよろしくお願いします」と感謝を伝える。
あの暑い暑い8月、毎日面会に行って、母に「今日も暑いよ、汗びっしょりよ」と、話しかけていたあの時と同じです。
季節は変わっていっても、今も毎日がそうやって穏やかに過ぎていきます。
これまで母に支えてもらってきたことに感謝し、そして、この先も母はずっと私のことを見守ってくれると感じています。
うまく言えないのですが、これからも母を感じながら、健康で、楽しく、友達を大切に、自分らしく生きていこうと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。