益田ミリさんの「永遠のおでかけ」を読みました。
お父さんが亡くなるお話
どういう内容か全く知らずに図書館で借りたのですが、益田さんのお父さんが亡くなるお話でした。
お父さんが亡くなるとわかり、亡くなる前、そして亡くなった後、お父さんのことをあれこれと綴っている本です。
病気に入院している時、末期のがんで余命6ヶ月とわかり、退院して家で過ごすことにしたこと、家で過ごすお父さんの様子、亡くなったとお母さんから電話を受けたとき、お父さんが亡くなった後の時の流れの中で、益田さんが感じるあれこれ・・・。
お父さんが亡くなるという悲しい出来事に対して、とつとつとした文調で、益田さんなりの表現で文章が綴られています。
自分のことを振り返ると、私は2015年に父を亡くしたのですが、益田さんの文章に自分をあわせ見る感じで、当時のことが思い出されます。
離れて暮らしていると・・・
余命宣告の後、病院を退院し、(大阪の)実家で過ごすお父さん。
益田さんは東京で暮らしているので、お父さんの日々の細かい様子はわかりません。
そんな中でのこんなくだり、「あぁ、わかるなぁ・・・」と感じました。
「離れて暮らしていると、実家での細かいやりとりが伝わってこない。伝えないでくれているとも感じる。それをいいことに、わたしは父に迫っている死を前に、仕事をしたり、秋物の服や靴を買ったり、カフェでケーキを食べながら本を読んだりしているのである。
そのくせ、スーパーで父の好物が目に入るとこみ上げるものがある。」
私もそうでした。
父はもう良くならないとわかってから、そう遠くない未来に死んでしまうのだと思いつつ、もちろんそうなってほしくはないんだけど、だからって自分にはどうすることもできない。
そんなことをあれこれ考えてどうどうめぐりをしていても、東京で現実の生活に戻るとどっぷりそれに浸かってしまう。
仕事でイライラしたり、それから開放された週末には自分へのご褒美として買い物したり、甘いものを食べたり、ジムに行ったり、父が元気だったころと変わらない生活です。
そのくせ、ふとした瞬間に、病院のベッドで枯れ木みたいにやせてしまった父の寝ている姿が頭に浮かんできたりしてました。
心の中の穴
最後の「ハロウィンの夜」というくだりの中で、以下のような文章があります。
ちょっと長いですが、引用してみます。
「心の中に穴があくという比喩があるが、父の死によって、私の心の中にも穴があいたようだった。それは大きいものではなく、自分ひとりがするりと降りていけるほどの穴である。のぞいても底は見えず、深さもわからない。
しばらくは、その穴の前に立っただけで悲しいのである。それは、思い出の穴だった。穴のまわりに侵入防止の柵があり、とても中には入って行かれなかった。
けれども、しばらくすると、侵入防止柵を超え、穴の中のはしごを降りることができる。
あんなこともあった、こんなこともあった。一段一段降りながら、懐かしみ、あるいは、後悔する。
涙がこみ上げてくる手前で急いで階段を上がる。その繰り返しとともに、少しずつ深く降りて、しばらく穴の中でじっとしていられるようになっている。」
自分ひとりが入っていけるほどの穴、益田さんにとっての「穴」は「思い出の穴」で、それとはちょっと違いますが、私の心にも穴があいたような感覚があるような気がします。
私の場合の穴は思い出の穴というよりは、ずーっと進んでいくとその先には父がいると思われる穴、でも、その穴は永遠に私には入って行けない穴なんです。
今でも父が死んでしまったという感覚がない、というと嘘になるのですが、正直、すごく遠いところではあるけれどどこかにいるような気がするんですよね。
どこかにいるんだけど、私は決してそこには行けない、そんな感じなんです。
それが、私の中の心の穴なんでしょう。
益田さんは、少しずつ深く降りていけるようになって、穴の中でしばらくじっとしていられるようになる、と書いておられますが、私の場合は、穴が少しずつ少しずつ、ほんとに少しずつ小さくなっていくような感覚があります。
穴が大きくても小さくても、私は穴の中には入っていけないのですが、穴が小さくなるごとにどんどん父が遠く離れていくような気がします。
いつか、穴が完全に埋まってしまう時がくるのかなぁ・・・?
いや、どんなに小さくなってもずっと穴はあいたままのような気がします。
どこまで行ってしまったのやら、うちの父は。
そんな感じです。
まさに「永遠のおでかけ」なんです。